時には肥沃な土を運び、時には水害をもたらし
今に継承される大洲の文化を作った
474本にもなる支流が流れ込む肱川は、天然の要害となり江戸期加藤家が納める大洲の町を守り続けた。 ヒジのように直角に曲がったこの川は大洲の町に肥沃な土を運ぶのと同時に、時として水害をもたらした。
石垣の上に建てられてた民家が多いのは、水害があることを前提にしているからだ。2018年7月7日の未曾有の豪雨があったことは記憶に新しい。昨年、愛媛の他の地域を訪れた際はほとんどの方が大きなショックを受けていたが、今回お会いした大洲の方達は「大洲の人間は洪水になれているからね」と、サラリと言ってのけていた。
川と共に生きる大洲市民は、川の良さも悪さも知っている。 大洲は川と共に育まれてきた町なのだ。
肱川では日本三大鵜飼の1つ「肱川鵜飼」が行われている。 肱川の川沿いには、国指定重要文化財に登録された臥龍山荘がある。夜の川辺から眺めることができるライトアップされた臥龍山荘の光と、鵜飼舟の篝火はとても幻想的だ。
もう1つ肱川で行われている行事に、日本三大芋煮の1つにあげられている「いもたき」がある。大洲の肥沃な土地で育った甘くて美味しい里芋を使うのが特徴で、華やかな食材は使わないが素朴で食べ続けられる優しい味だ。
全国的に和菓子が隆盛したのは江戸元禄期年間。 この時代は「元禄文化」と呼ばれる華やかな文化が生まれ、菓子では上菓子と呼ばれる公家や大名に献上される和菓子が生まれた。京都で研鑽された菓子が献上品として江戸の町に広がっていき、さらに参勤交代などでそれを見た全国の大名や従者を通じて全国に広がっていった。
京都東山の妙法院で書かれた「妙法院日次日記」の元禄9年(1696年)の記述に、大洲の領主加藤泰恒へ大量の和菓子を送った記述があり、大洲の和菓子への関わりがうかがい知れる。
当時の和菓子は、羊羹と饅頭が圧倒的な人気であり、現在も続く銘菓「志ぐれ」もその流れを汲んでいたと思われる。
志ぐれは、柔らかく煮た小豆に米粉や餅粉を混ぜ合わせ、蒸しあげた和菓子。外見は棹型で、食感はしっとりと弾力に富み、餅のような食感が特徴。寒天を使った練羊羹が広がる前の初期の羊羹の面影がある。
江戸期、代々領主を担っていた加藤家は、大洲の振興のために様々な産業を行った。その1つが栗の栽培だった。 当時、加藤家の領地であった中山町には、2代藩主加藤泰興(1611年~1678年)が参勤交代の際、将軍徳川家光に栗を献上し賞賛されたという記述が残っている。
全国で3番目の生産量を誇る愛媛県の中で、1番の産地がここ大洲を含むJA愛媛たいきだ。この地域の栗の代名詞とも言われる品種「銀寄(ぎんよせ)」は、江戸の頃よりある品種で当時の菓子屋に指名買いされるほど評判の良い栗であったようだ。
大洲は栗の産地ではあるものの栗を使った加工品は少なかった。
平成26年より地域の栗を活用した新商品開発と、地元産栗のブランド化を企画し、すでに人気を博しているひらのや製造本舗の「栗華の宴(りっかのうたげ)」などが生まれている。